1995年1月17日について

 あの日、大阪府和泉市の友人Wの家で寝ていました。前日、京都の教会で集まりがあり、大阪の教会のメンバーと参加しました。(あの頃、私は改革派教会ではなく、他教派に所属していました。)和泉市に戻って来ましたが、次の日には教会の用事で出かけることにもなっていましたので、自分の下宿に戻るのも面倒だったのです。

 あの朝、地震の揺れで目が覚めました。でも自分が寝ていた友人の部屋には、倒れてくるような家具は何もありませんでしたので、揺れを感じながらもそのまま横になっていました。ずいぶん長く揺れているなと思いましたが、それだけです。関西に大きな地震は来ない、というのが定説だったからです。もっとも隣の部屋では、友人Wが食器棚を必死で押さえていましたが。

 当時はインターネットはおろか、携帯電話も一般には普及していませんでした。地震のことは気になりましたが、詳しい状況は分かっていませんでした。牧師先生とも地震のことは話題になりましたが、友人Wを始め若者数人で車に乗って教会の用事で出かけました。いつもなら車で30分少々で着くはずですが、道路が大渋滞でした。車のラジオから少しずつ地震の情報が入って来ます。時間を追うごとに、これは大変なことになっているのが分かって来ました。

 結局その日、目的地に着くのに4時間ほどかかったと思います。そして教会の仕事を果たすことはできませんでした。先方も、それどころではなかったようです。教会に戻って来られたのは、もう夕方近くになっていました。その頃には、阪神高速道路が倒れている映像もテレビで流れていたように思います。

 その後のことは、本当に戦場のような感じでした。大きな被害のなかった鳴尾の教会を拠点にして、西灘や須磨、御影へと向かう支援活動が始まりました。

 私が所属していた教会の牧師は、大きな手術をした先生で、丈夫な先生ではありませんでした。でも関西では何かと頼りにされる先生で、支援活動のために奮闘しておられました。ある時先生が言ってました。「死にそうや、なんて言われへんわ。実際に死んでる人がいるんやから。」これが当時の私たちの偽らざる心境でした。

 教会のメンバーが大型トラックを運転して、支援物資を運びました。ヒビの入った小さな橋を渡るかどうか、という場面に遭遇しました。深く考えるよりも先に行動するタイプの兄弟でしたので、一気に加速して橋を渡りました。その時、私も同乗していましたが、生きた心地がしませんでした。他にも、余震の続く中、倒壊したアパートから荷物を取り出してくださいと頼まれて、友人Wと決死の思いで部屋に入ったこともあります。他にもいろんなことがありました。

 あれから24年が経ったと言われ、そんなに昔だったかと驚きます。友人Wも大型トラックを運転していた兄弟も、今関西で牧師をしています。あの震災と献身とは、私たちの場合には全く関係ありませんが、改革派教会ではあの震災を契機に献身へと導かれた人が何人もおられると聞きます。私が知らないだけで、自分が以前所属していた教派にもそのような方がおられるのかもしれません。

 さて、神戸の街はすっかり復興したと言ってよいでしょう。その一方で、この間、人々の心の復興のために何ができただろうかと思わされます。この間、日本も世界もよりよい世界になったのだろうかと考えると、なんとも言えません。

 今日はあまりうまく恵みを数えることはできませんが、それでも明日は今日より良い日になると信じようと思います。先に信仰を持っている者が信じることによって、より良い世界、神の国が進展すると考えるからです。信じる者の、神に仕える歩みが止まることはないのです。