私は頑張らない

 教会員のOさんを訪問しました。高齢になられて、礼拝を休むことが続いています。時々お訪ねするのですが、時間が悪いのかお会いできていませんでした。今日はいつもと時間を変えて訪問しました。

 さて玄関のチャイムを押しても返事がありません。例によって(!)裏庭の方へまわると姿が見えましたので、失礼ではありますが、裏庭からお呼びしました。年報をお渡しし、2月の出張聖餐式に伺う予定にしていることを改めてお伝えします。少し耳が遠くなってきておられます。ひとしきりお話しして、帰ってきました。

 教会にとって高齢の方の存在はとても大きな意味があります。信仰によって生きる姿、姿勢、覚悟のようなものを明確に示してくださるからです。

 歳を重ねた方々の信仰の姿勢を見るにつけ、いつも思うことがあります。自分が同じような歳になった時に、同じような姿勢で信仰生活を守ることができるだろうか。ちゃんと教会生活を送れるだろうか。そのように考えた後で、いや自分も頑張らなければ、と思うのです。そしてさらに、歳を重ねた方々と自分と同じ神を信じているのだ、とも思うのです。信仰の先輩方を支えてこられた神が、私も支えてくださるのだと信じるのです。

わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。 」(イザヤ書46章3−4節)

 私が頑張るのではなく、主が支えてくださるのです。ここに私たちの希望があるのです。