牧師 後登雅博(ごとうまさひろ)

 

   高蔵寺教会の牧師として働き出して、丸6年になろうとしています。この間、イエス・キリストの父なる神の憐れみと、教会員の祈りによって支えられて来たと感謝しています。日々、牧師の務めの重さと、牧師であることの恵みを感じています。

 自分の思いで牧師であろうとすれば、到底これは務まらない働きです。人が願うことよりも先に、神の導きがあるからです。では、牧師個人の力量や学んだことが問われないかといえば、そうでもありません。神は生きて働かれ、個人個人を大切にされるからです。神はあくまでも、「わたし」という個人を捉えて、この働きに任じてくださいました。

 はじめにも書きましたが、私が高蔵寺教会の牧師であることができるのは、神の憐れみ以外の何物でもありません。その意味でいえば、自分の功績として差し出すことのできるような働きは何もありません。だからこそ、ここに神の憐れみと召し(神が牧師の働きをさせてくださること)があると信じます。

 「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。

   古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

             (コリントの信徒への手紙二 5章17節)

 最近、改めて心に刻んでいる神の言葉です。イエス・キリストを信じるならば、誰でも新しく始めることができます。イエス・キリストを信じていれば、何年経っても、新しい思いで神に向き合うことができます。

 どうぞ、教会においでください。新しいことがきっと始まります。

 

牧師 後登雅博(ごとう まさひろ)


  神様のために人生をかけて働きたい! と決意してから、現実に教会の牧師として働けるようになるまでに実に20年以上かかりました。その間、東京の神学校を中退し、社会人も経験しました。挫折と遠回りの人生です。まさに、名前のごとく「後から登る」です。でも、聖書には「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」(ローマの信徒への手紙11章29節)と書いてあります。この御言葉を信じて、祈り続けてきました。人間の思い、人間の挫折。そのようなことを乗り越えて、神の計画は進められていくのです。

 できれば挫折や遠回りはしたくないものです。しかしイエス・キリストを信じる時に、そのような経験も意味のある経験となります。全ては神様の配慮の中にあると信じるようになるからです。

 今、挫折や苦難の中にある方もいらっしゃるでしょう。どうぞ、聖書を読んでください。聖書には挫折や遠回りした人の話もあります。でも神様のなさることは良いことだと信じる時、人生は開けていきます。必ず道は備えられています。

 教会では毎週、聖書からお話をいたします。人生を生きていくためのヒントが与えられるかもしれません。どうぞ教会においでください。お待ちしています。

 

 2006年 神戸改革派神学校卒業(5年3ヶ月在籍)

 2006年~ 清和女子中高等学校聖書科教師として8年間奉職(高知県南国市)

 2014年~ 高蔵寺教会牧師 現在に至る